リアリティと振り分け
リアリティのある表現をする!という時、
自分の感覚や感情を、
リアリティのある表現になるようにコントロールしようとしていないだろうか?
リアリティはコントロールしようとすれば薄くなる。なぜなら、コントロールしようとした時点で、リアリティを構成するエネルギー全体から、自分のジャッジメントにより、
リアリティがある表現になりうる感覚、感情と、
そうでない感覚、感情とで、
振り分けが行われるから。
リアリティが強いというのは、自分の全てがさらけ出されている状態。ジャッジメントは、制限することをその本質に持っているので、リアリティが薄くなるのは当然。
いい演技しよう。いいとこ見せたいという思いも同じ。
コントロールしよとしている。
他にも
感情というのは、こんな感じ。これは頭になっている。という振り分けも同じことになる。
ハートが締め付けられるような感覚になったら、感情が出てきている。
涙が出たら感情が出ている。そうでないものは、違うものだ。
と切り捨ててはいないだろうか。
普段感情的になっているとき、熱く語り合っている時、心臓は締め付けられているだろうか。
みぞおちが苦しいだろうか。
体の中に言葉を作り出そうとする、エネルギーの流れを感じているだろうか。
感情的になっている時、体感覚は、案外何もないかもしれない。
少なくとも、自分を予想してい他ものではないかもしれない。
自分が感情や感覚だと思っているものは非常に限定的である可能性がある。
感覚などあてにはならない。ぐらいでいいのではないだろうか。
なんでもいいからやりたいようにやるだけ。
これは、違う。というそのジャッジメントそのものを手放すのだ。そこがポイントだ
ジャッジメントそのものを手放そうとするのもジャッジメントでは?
というかもしれない。
確かにそうだ。では、ジャッジメントそのものを、ジャッジメントの唯一の対象にして、
それ以外を手放すことはできるだろうか。
このアイデアは、より繊細な内観へのきっかけになる。
手放す。というのも奥が深い。
認識していなければ手放しようがない。
他者の気づきは、
自分の中の認識していないことがらに対して気づくきっかけになる可能性を秘めている。
という意味で学べるのだ。
演技訓練は、ただひたすらに自由になっていくことを目指しているのだ。
それが真っ白いキャンバスであり、役という絵を描く基本となるのだ。
しかし、我々の心の動きは、本来自由であって当然である。
つまり、気づきとは、自由への架け橋である